学習機会をどう捉えるか

スリランカは道端で、人がよく物売りをしている。

薄い生地の洋服、バック、食べ物、水。

 

食べ物の中でも、もっともメジャーなのは「ロティ」という、

インド風揚げ物。

中にはカレー風味の野菜やひき肉を炒めたものが入っている。

カラット上がっていて、揚げ餃子みたいな触感。

※めっちゃおいしい。

1つ30スリランカルピーかな。たまに1つおまけしてくれたりする。

 

今思えば、私は、たまたま道で買ったロティで、価値観が一つ増えたんだと思う。

ロティを包んだ紙はいつも、誰かが勉強したノートの紙で、数式や化学式が書かれている。

皆生きるために、勉強するんだって。

貧しい人が、出世する大事な機会。

 

 

 f:id:aoba-kiuchi:20170713004751j:plain

 

貧しい中でも、貧しさに身を滅ぼさず、貧しさに負けず、

環境のせいにせず、環境を恨まず、

前だけ向いているんだろうか。

 

もっともっと考えていくと、

自分ならこの環境を変えられるんだ。自分がやっている学習という貯金は絶対意味があるんだ、という自己肯定感を皆が持っているんじゃないか、と思い始めた。

それか、その国の市場が高く評価して将来を確約するような風土があるのかな。

勉強したい人、またはできる人が、しやすい環境を整えているのかな。

 

一方。。。

日本は、(海外と日本を比べて、日本「は」これがだめだ!というつもりは毛頭ないっす。)

 

相対的に低所得の家庭こそ、子どもの学習環境に固執していない気がする。

誤解を恐れずにいうと、

貧しさから脱する為に勉強をしよう(させようと)、と思っていない。

勉強することを貧しさを脱却するための機会と捉えていない。

これは、個人的に、私が今の業務から思ったことです。

 

そりゃそうだよね。

まず目先の生活がある。

どこに住むのか、何を着るか、何を食べるか。

学習環境なんて後か。

貧しい人にとっては、学習は投資的な行為だから。

 

そもそも価値を感じていないので、

たとえ、東大の赤本を1円で提供したとしても、

「安く」感じてもらえない節がある。

 

 

貧しい中でも、学習機会を自己投資と捉えるのか否か、

国によって違いそうだな。