Nightmare before being 蟹工船

私の価値観が一個死に、

また一方で新しい価値観が生まれた瞬間でもありました。

 

時には雪を踏んで、ひたすら踏んで歩く。

やってるのかやってないのかわからない飲食店を除いて座る場所を探す。

徒歩20分なのに、何もないからか、ずいぶん遠く感じる。

そこに生活する人がいるはずなのに、人は私以外歩いていない。

 

信号はない。

「注意して渡れ」という信号が点滅しているだけである。

人も車も少ない街には信号すら必要なくなるのかなあ、とふと考える。

 

コンビニさえないない村には、

畑で農作業をするおじいさんとおばあさんが、

ずいぶん大きな畑にぽつんと座り、土いじりをしている。

 

畑が大きすぎるのかわからないが、人の姿がとても小さく感じる。

大きなタンクはJAのだろうか。

 

ここに住む子どもは、

何を見て、そこから何を感じて、何に楽しみ、何に憂うのか。

 

学校の廊下に張られた、無数の求人票を見つける。

 

10センチほどの長方形の白い用紙に書いてあるのは、

「高卒可」という言葉と月給。

仕事内容は清掃員か工場の缶詰のスタッフである。

 

 

初めて見たあの光景は、今でも忘れない。

薄暗い廊下。

 

学校の大きな窓から、

ワッと入る風で、求人票がバタバタと一斉に揺れて、

風に動かされた紙の音に、心がざわく。

 

子どもの将来は、この紙ペラ一枚で、そんなに簡単に選べるものなのだろうか。

どちらかしかないものなのだろうか。

 

 

「私の学生時代を話したところで、何も参考にならないかもしれない。」

 

環境が違いすぎる。

 

こんなの言う方が酷じゃん。

 

 

田舎であればあるほど、

隣の村と自分たちとを比べて、勝ちたがっているような言動が目立つ。

そして、「隣に比べて」まだ大丈夫、と自分たちに言い聞かせる。

 

 

地元の学校に行かない、「本当の」理由。

地元の学校よりも、街の学校に出たい理由は、

進学実績や就職率や、部活じゃない。

 

同じ人間関係に飽き飽きしたから。

もう逃げ出したいから。

 

 

 

でも先生にはわからないかもしれない。

 

 

子どもが本当の自由意思で自分の将来を選択できるなんて、実現できるのだろうか。

環境が子どもの意思を邪魔しない世界は、あるのだろうか。

 

 

ここにいったからこそ、感じたことでした。